第13回 かつての生活路線 〜新京成電鉄〜


<はじめに>

父親の転勤により一家揃って岐阜県から千葉県船橋市に転居したのは、今を遡ること22年前の昭和50年3月。
ひっきりなしに走り交う総武本線の電車、けたたましく鳴り響く津田沼駅の発車ベルを目の当たりにして、今まで国鉄線と言えばのんびりと走る高山本線の気動車や東海道本線の電車しか見たことのない私にとっては、異国の地千葉県に来て、見るモノ全てが驚きであったことを鮮明に覚えています。
そんな驚きの連続の中で出会ったのが新京成電鉄の電車でした。当時は大正末期から昭和ひと桁生まれの旧式電車たちが肌色とワインレッドのツ−トンカラ−で群をなして活躍をしていました。木張りの床、カキンカキンと網棚の縁にぶち当たる吊革の音、唸り響きわたる釣り掛けモ−タ−音などは名鉄のAL車を連想させるものがあり、私はこれらの電車たちにすぐ馴染んでいました。
2年後の昭和52年には、再び父親の転勤により船橋市から離れることになり、それ以降は新京成の電車との付き合いもめっきり無くなってしまいました。現在は既に当時の旧式電車たちは姿を消してしまいましたが、今回は名鉄以外では初めて出会った私鉄であり、生活路線でもあったこの鉄道を当時を思い出しながら御紹介したいと思います。


京成津田沼駅にて


京成津田沼駅6番線に停車中の松戸行きの列車<97-05-31京成津田沼>


<新京成電鉄について>

常磐線の松戸を起点に京成電鉄の京成津田沼までを結ぶ全長26.5キロ、軌間1,435ミリの電化路線です。路線は複線ですが、新津田沼〜京成津田沼間だけは単線となっています。
習志野にあった旧日本陸軍鉄道連隊の演習線を利用して建設され、昭和22年に開業しました。当初は軌間1,067ミリ、元京成の木造車を使用してのスタ−トでした。
その後、昭和28年には京成津田沼までの路線延長と1,372ミリへの改軌。さらに昭和34年には1,435ミリへの改軌が行われています。特に1,435ミリへの改軌は京成電鉄が都営地下鉄、京浜急行との3社相互乗り入れ前の先行的試験として行われたと言われています。
車両については、以前は元京成の小型車が多く運用されていましたが、沿線人口の増加に伴い、現在は自社発注の新造車が投入され活躍しています。


京成津田沼行きを見送る


新津田沼駅で京成津田沼行きの電車を見送ります。新津田沼〜京成津田沼間は同鉄道唯一の単線区間となっています。写真右側の列車は側線に留置されているのであって、スレ違いではありません。<97-05-31新津田沼>


<20年ぶりの光景>

まず、京成津田沼駅に降り立ちました。
新京成のホ−ムは5〜6番線で、止まっている電車以外は雰囲気は当時のままのように感じました。
次に新津田沼駅に向かいます。この間は単線区間なのですが、ここもほぼ当時のままの雰囲気でした。旧形電車はここで大きく車体を揺らすため、吊革が網棚にあたる音が車内に響きわたっていました。
新津田沼駅の下りホ−ム(京成津田沼行き)の裏側には車庫がありましたが、ホ−ムに降りて見回してみると線路はなくなり、変わりにその場所は有料駐車場になっていました。当時は京成の車両などが出入りをしていたのを覚えています。
しかし、車庫は無くなったとは言え、駅構内自体はほぼ当時のままであるように思えました。
さて、当時の最寄駅は高根公団と高根木戸でした。
私は高根公団駅を利用することが多かったので、今回は高根公団駅で下車をしてみました。
公団と言うとおり、駅前には団地がズラリと建ち並び、その中にショッピングセンタ−等の建物が建っているように見えます。この光景は20年前とほぼ変わらないように見えましたが、かつて頻繁に通った商店街は無くなっていたうえ、広いと思えた駅前がだいぶ狭く感じました。色々な建物が建ってきていることもあるのでしょうが、20年の歳月の流れはこうも町並みを変えてしまうものなのかと暫く立ちつくしてしまいました。
しかし、その他の沿線には田畑や酪農家の牛舎、茅葺き屋根の建物も見ることが出来、当時の光景もまだ多く残っているようにも思えました。


単線区間を眺める


単線区間を眺めます。新津田沼駅下りホ−ムの裏手には、かつて車庫がありましたが、現在は有料駐車場となってしまったようです。<97-05-31新津田沼>


新津田沼駅構内


新津田沼駅の構内です。大きくカ−ブしたホ−ムや線路など、ほぼ当時のままの雰囲気でした。<97-05-31新津田沼>


高根公団駅にてA


高根公団駅に到着した京成津田沼行き<97-05-31高根公団>


高根公団にてB


列車を見送る<97-05-31高根公団>


お粗末さまでした。Back to Top

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